アムネシアのリコ(61)

第四章 ダウン・ライト・ライ

     1

「「ありがとうございましたっ!」」 佑介と彩島の声がはもる。

 七月二十六日、お昼時の『喫茶加藤』は、昨日の賑わいを忘れたかのように平常営業。いつも通りのまばらな客が、コーヒーを啜りながら、スポーツ新聞や、週刊誌を読み漁っている。
 昨日、莉子との約束を忘れきった佑介は、ベッドに身体を横たえても全く眠気がやってこず、今朝も睡眠不足のまま、バイト先までふらふらと自転車を漕いだ。
 ここまで聞くと、昨日と全く同じ展開だったが、今日の佑介は違っていた。

「二海君、今日はオーダーミス無かったね? 何か凄い集中してたよ」
「そうですか? 気持ちが入れ替わったからですかね。俺もアルバイトを頑張ったら、変われるような気がしてるんです。先輩のお陰ですね」
「私、昨日凄い喋っちゃったよね……私のお陰なんて言わないでよ。これから二海君が変わる事に私は関係ないと思うしさ」 彩島は食器洗いをしながら答えた。
「目指すは先輩ですよ! 俺、先輩のいる高みに近づいてみたいんです」

 佑介は彩島が洗った食器を、隣で受け取って丹念に水分をふき取っている。佑介は、食器を見つめながら、そう言った。
「私の高みって、私なんかそんなにいい物じゃないって……今だって受験勉強が上手くいってないしさ……」 彩島は苦笑いしながら、円を描くように皿を洗っていく。
「そういえば、先輩今年受験ですよね。やっぱり国立の大学を目指してるんですか?」
「うーん、受験の話はちょっと今やめて――――、ここにいる時だけは忘れてたいの」
 彩島は首を左右にブンブンと振った。受験の話が相当したくないようだ。

「わかりました。じゃあまたここ以外の場所で会ったときに、お願いしますね?」
「二海君鬼だよ……、外では会わないようにしよ、絶対に逃げ切ってやる―――――!」
 彩島はエプロンを捲り上げて、顔半分を隠すようにした。
「手始めに三年生の補講に忍び込んでいいですか?」 ニヤリと笑う佑介。

「おい、お前ら随分楽しそうだな。俺も混ぜろよ。なあ?」

「「えっ」」 キッチンが北極に転送されたかの様に、空気も身体も、一瞬にして凍りつく。
「俺も同じ従業員なんだが、そうやって無視するのはよくないんじゃないか?」
 赤橋は右手に缶コーヒーを持って、ニヤニヤしながらキッチンに入ってきた。喫茶店の店員が、自販機のコーヒーを飲んでいるのはおかしい気がするが、赤橋には似合っていた。
「チーフ、そんなキャラでしたっけ……大人しくキッチンで店長と新作料理でも研究してて下さいよっ」 彩島はほっぺたを膨らませて、鬼チーフである赤橋に堂々と文句を言った。
「彩島っ、お前こそ上司にそんな事を言うキャラだったか? 昨日の一件もそうだが、これは店長に報告して、店の要会議事項にしないといけないみたいだな」

 赤橋の手に握られたスチール缶が変形する。
 佑介は、キッチンで急に勃発した彩島×赤橋戦争の、真ん中にポジションを取っていた。
「二海君もチーフに言ってやってよ、店長とよろしくして来て下さいって!」
「二海、お前分かってるよな。ここではどちらに付いているのか正しいのかって事をよ!」

 左右から睨まれる佑介は、何なんだこれ! と心の中で何度も唱えた。
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アムネシアのリコ(62)
「何だか楽しそうな事をしているね? 私も混ぜてもらえないだろうか」
 そして最後に、『喫茶加藤』の主、優貴菜と拓朗の父親である、加藤拓昌(かとう・たくまさ)が現れた。もう佑介はこの異常事態をどうしたらいいのかわからなかった。

「てっ、店長! まだ客は来ていないんで、休んでてください!」 赤橋は拓昌に近寄ると、身体の調子を心配した。拓昌は腰が弱く、客のいない間はできるだけ、腰を休めるようにしている。
「いやいや、優貴菜がいた頃の賑やかな店を思い出してな、ちょっと顔を出したくなっただけなんだがね、赤橋君は相変わらず私の事を年寄り扱いしすぎるね」
 拓昌は赤橋の肩をぽんと叩いた。しかし赤橋の不安そうな顔は、変わらなかった。
佑介は、赤橋のそんな表情を見たことが無く、少しだけ赤橋の印象が変わっていた。

 すると、ホールからカラカラーンという鐘の音がした。
 この鐘は入り口が開いた時に音がする様になっている。

「おっと、ちょうどお客様が来てしまったようだね。じゃあ、みんな、午後もよろしくお願いしますよ?」 店長は全員の顔を見回して、にこやかな表情を浮かべた。
 全員が、よろしくお願いします、と声をあげた。
「二海、お前朝は調子よかったが、午後はそういくとは限らない。気を抜かずに、しっかりやれよ?」
 そう言って拓昌と赤橋は、冷蔵庫にある昼食用の材料を取りに向かった。
「はい。わかりました」 佑介は、今の言葉が赤橋なりの応援なのではないかと思った。

「全く素直じゃないよね。じゃあホール組みの私達も行きますか!」
 彩島は右腕を折り曲げて、力こぶを作る真似をした。
「何か彩島先輩、今日楽しそうですね! 何かいい事あったんですか?」
 楽しそうな人といると、何故か楽しくなってくる効果(?)が作用して、佑介は理由も無く楽しい気分になっていた。
「そう? うーん、受験勉強から離れてるからだよ。あっ、口に出したらまた思い出しちゃった……うぇ……」 彩島は口に手を当ててしゃがみこんだ。

「ごめんなさい、思い出させてしまって! じゃあオーダーとって来ます!」
「いってらっしゃーい……がんばってね〜」 彩島は手を振った。
 急に静かになったキッチンに残された彩島は、

「素直じゃないのは、誰なんだろうね……」 と呟いた。

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アムネシアのリコ(63)

     2

 早朝の七雲総合病院。

 優貴菜がいつも通り朝の挨拶をしに、莉子の病室に入った時に、事件は起こった。
「莉子あなた、昨日結局着替えなかったの?」
 病室に入った優貴菜を出迎えたのは、昨夜着た私服姿の莉子だった。
「おはようございます優貴菜さん。昨日の夜一応パジャマ着たんです。でもまた着替えました」
 いつもの様な明るさが無いと、優貴菜は思った。昨日の事が相当効いている、そう思うと、佑介の事が頭に浮かぶ。約束を守らなかった、あの馬鹿が。

「でも、今日のこの時間にはさすがに二海君は来ないわよ? 待つのなら夜まで着替えなくても」「いえ、佑介さんを待っている訳じゃないんです。思い出しちゃったんです」
 優貴菜の心が止まる。体が凍る。瞳孔が開く。汗が噴き出す。
「え、思い出したって………………、何? 約束の事? 昨日の夕飯?」
 必死に話の方向をずらそうとする優貴菜。そのまま話を進めたらどうなるのか、想像したくない。優貴菜は引き攣った笑みを浮かべて、莉子に聞いた。

「記憶です。私は自分の記憶を思い出しました。だから、今日、退院させてください」
 莉子は無表情ながらも真っ直ぐな表情で、優貴菜を見つめた。
 その顔を見て、優貴菜は悟る。
「本当に思い出したのね、いいわ。ちょっと鷲木先生に伝えるから、後で診察室に行きましょう」
「わかりました。ありがとうございます」 莉子は頭を下げる。

 優貴菜は、明らかに変わってしまった莉子を見ていられず、そそくさと病室を出て行った。

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アムネシアのリコ(64)
「そうですか、思い出しましたか」
 鷲木は回転椅子をくるりと回す。

「原因は、昨日二海君と外出する約束を、破られた事だと思うんです。
すいません、私が軽率な行動をしたばっかりに……」 頭を下げる優貴菜。
「いえ、別に記憶が戻ることが、絶対的に悪いことになるとは言ってませんよ。
 もともとは、記憶を戻すために入院させていた訳ですしね」
 鷲木は苦笑いする。

 鷲木にとって、この急な展開だけは、あまり望ましいものではないと思っていた。
優貴菜の困りきった表情を見た鷲木は、それを正直に言うことはできない。
「彼女が自殺をするという仮説も、結構突飛だったような気もしますし、はは」
「そうですね。もし自殺するんだったら、起きた瞬間に部屋からいなくなってますもんね」
 二人の間に緊張が走る。今すぐにでも莉子がいなくなってしまう様な気がした。
「じゃあ、あの子を呼んできますね」
「優貴菜さん、最後の診察になるかどうかは、私が決めます。ですから、少し落ち着いてくださいよ。加藤さん」
 鷲木は優貴菜に向かって、笑みを向けた。

優貴菜はそれを見て、少し肩の力が抜け、
「ありがとうございます。嘘だったら、縛り付けてでも入院させてやりましょうねっ」
 そう言うと、優貴菜は診察室を抜けて、莉子の部屋まで駆けていった。
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アムネシアのリコ(65)
 扉を開けると、莉子はきちんとベッドに腰を下ろしていた。

 相変わらず無表情なのは変わらない。しかし、部屋にいてくれたことに優貴菜は安堵した。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい。お願いします」
 二人並んで歩く光景はいつもと一緒だったが、今は二人の間に壁があった。
 少しの間で築いた人間関係、信頼関係よりも遥かに強く、高い、壁が。

「良かったわね…………記憶思い出して。気分はどう?」
 優貴菜は心にもない台詞を吐いた。声が震えそうになるのを、必死にごまかしながら。
「良かったです。それも優貴菜さんのお陰です」
 淡々と告げられる言葉に心が締め付けられる感覚。
何かが心臓に巻きついて、それが心臓が鼓動するたびに、締め付けてくる。

(その言葉、昨日の莉子に言われたら、どれだけ嬉しかったんだろう……)

 優貴菜は小さく息を吐き出して、気持ちを切り替えるように頬を叩く。
「じゃあ、最後の診察になるかもしれないけど、頑張ってね!」
 そう言って優貴菜は扉を開けた。部屋の中には入らない。というより、
 入れなかった。
「診察が終わったら、また」 莉子は扉を閉めた。
 廊下にが急に無音になる。それはまだ、時間が早いからしょうがない事だ。
 でも、今の優貴菜には、その無音こそが一番の重圧になった。

「っう、うっ、うっ……う、ううう……」
 張り詰めていた線が切れるように、優貴菜の目から涙が溢れる。
 記憶を思い出した事が悲しいんじゃない。
 別れなくてはいけないのが悲しいんじゃない。
 莉子が変わってしまった事が悲しいんじゃない。

「……私はあの子に……何をしてあげれたんだろう…………」
 莉子が病院の中にいた時間を、一緒に過ごしていた時間を、私は莉子に楽しく生活させることができただろうか。喜びや、希望を与えてあげれなかった。と優貴菜は思った。
「あんな顔しかできなくなるなんて…………何で思い出してしまったのよ……」
 頭に浮かぶのは、無表情な莉子の顔。

 両手で目を覆う。それでも手からはみ出す程に、溢れ出す涙。
 優貴菜の嗚咽が、鼻を啜る音が、病院の廊下に響いていく。それを聞く者はいない。
「そんな記憶、ずっと忘れていれば良かったのに……」

 優貴菜は両膝を廊下につけて、少女の様に泣き崩れた。
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